はじめに:専門性が「病名」で上書きされる瞬間
これは、私が退職届を提出し、産業医との面談で「うつ病の疑い」が出た直後の出来事だ。
心療内科の受診予約まで、約二週間の猶予があった。
私は当時、組織を管理する立場にあった。
そのため、万が一に備え、取締役との引き継ぎ会議をそれまで以上に重ねた。
組織構造の問題点、改善案、今後の管理体制。
私はあくまで組織管理者としての専門性に基づき、論理的に説明していた。
だが、そこで起きたのは奇妙な現象だった。
――話が、半分しか聞かれていない。
相手の表情には、明確なフィルターが貼られていた。
「うつ病の人の発言」という、便利なラベルだ。
その瞬間、私の言葉から
専門性・責任・現場理解といった要素が、すべて削除された。
残ったのは
「病気による思い込みかもしれない発言」
それだけだった。
このとき感じた苦痛は、状態そのものよりも深い。
自分の存在が「病名」という分類に押し込められ、
それまで積み上げてきた専門性そのものを否定された感覚だった。
私は幼少期から
「外国人だから」「母子家庭だから」といった
分類による判断を、心底嫌って生きてきた。
だからこそ、
病名ひとつで論理性まで否定されるこの現象を、
私は明確に「偏見」だと認識している。
なぜ周囲は、急に話を聞かなくなるのか
これは、あなたの価値が下がったからではない。
周囲の側で起きている論理的防衛反応だ。
認知コスト削減のための「ラベル貼り」
人は、複雑な対象を理解するのにエネルギーを使いたがらない。
「うつ病」というラベルは、
相手を一気に単純化できる、非常に都合の良い分類だ。
結果として、
あなたという複雑な存在を理解する認知コストが、
一気に削減される。
組織の視点に立てば、
「不安定かもしれない人物の言葉を信用しない」という判断は、
短期的には合理的ですらある。
ただし――
それは「正しい判断」と「正しい結果」が一致することを保証しない。
実際、私の警告が無視された後、
組織は半年以内に主要人材の大半を失い、
大規模な立て直しを迫られることになった。
感情的巻き込みを避ける防衛反応
もう一つ働くのが、
感情に巻き込まれないための距離取りだ。
相手の苦しさに触れること自体が、
自分のエネルギーを消耗すると無意識に判断される。
結果、
「聞かない」「関わらない」「表面的に処理する」
という選択が取られる。
これは冷酷さではない。
単なる自己防衛だ。
「偏見」は二次被害を生む
最も残酷なのはここだ。
病名で判断された結果、
社会的役割そのものが奪われる。
同じ言葉を話しても、
診断前と後では反応がまったく違う。
これは、
「調子が悪い人が軽視される」という話ではない。
専門性が存在ごと無効化される現象だ。
過剰な配慮という名の腫れ物扱い
偏見は、無視だけでなく
「過剰な配慮」という形でも現れる。
休職後、退職の意思を伝えた際、
会話は明らかに不自然だった。
結果、
エネルギー切れ寸前の状態で、
一時間半以上の面談が続いた。
これは尊重ではない。
リスク回避のための静止だ。
Satsuki式対応:孤独を「防衛空間」に変える
この状況で必要なのは、理解を勝ち取る努力ではない。
期待値を強制的にリセットする
「他人に完全に理解されることはない」
これは悲観ではなく、仕様の認識だ。
理解を求め続ける行為は、
有限なエネルギーを消耗させるだけの高コスト行動になる。
職場では「機能」に集中する
目的は「わかってもらう」ことではない。
記録を残し、責任の所在を明確にすることだ。
話半分でも、
機能が果たされていればミッションは完了している。
私はこの割り切りのおかげで、
二年後に「あなたの言う通りだった」と言われる結果を得た。
孤独を再構築空間として使う
離れていく人間は、
あなたの人生に深く関わる存在ではなかっただけだ。
残された静かな時間は、
思考を再構築するための、最適な環境になる。
結論:話を聞かれなくなっても、価値は減らない
周囲の反応は、
あなたの価値ではなく、彼らの防衛反応を反映している。
理解されない孤独を嘆くより、
その静寂を再構築の資源として使えばいい。
あなたの専門性も、思考も、
病名ひとつで消えるものではない。

