私は、もともと「読む」ことに人生を使ってきた
私は幼いころから、本が好きだった。
好き、というより生活の中心だった。
お金がなくて食事を抜くことはあっても、本を買うことはやめなかった。
本屋に入ると、数時間は当たり前に溶ける。
表紙、目次、数ページ。
気になる本を山ほど手に取り、そこから何度もふるいにかける。
それでも最終的に残るのは4〜5冊。
本当は10冊以上ほしい。
だからこそ、我が家に迎え入れられるのは勝ち抜いた精鋭だけだった。
買った本は、必ず読む。
たとえ「思っていたのと違う」と感じても、最後まで読む。
一冊一冊を、時間をかけて、噛みしめるように。
私は読むのが遅い。
一文字ずつ、行間まで含めて読みたい。
速読や斜め読みは、私にとっては「理解を捨てる行為」だった。
漫画ですら一冊に一時間以上かかる。
「そんな真面目に読むものじゃない」と笑われたこともある。
でも、それが私の通常運転だった。
これは後になって分かったことだが――
この時点では、システムは正常に動いていた。
それでも、読めなくなった
最初は、気づかなかった。
突然ではなく、静かに、段階的に起きたからだ。
いつの間にか、仕事関係の本しか読まなくなっていた。
買う冊数も減っていた。
「最近、あまり欲しい本がないな」
そう思っていたが、それを異常だとは認識していなかった。
今振り返れば、これは興味の喪失ではない。
リソース制限の予兆だった。
違和感:文字は見えているのに、内容が入らない
決定的な違和感は、別のところから来た。
私は、文字主体で物語が進むゲームを長年楽しんでいた。
物語を読む感覚が、本に近い。
だから続けていた。
ところがある時期から、
ストーリーが進められなくなった。
文字は読める。
画面も見えている。
操作もできる。
それなのに――
何が書いてあるのか、分からない。
「飽きたのかな」
「話が複雑すぎるのかな」
そう解釈していた。
この時点でも、
「自分の処理能力が落ちている」とは思っていなかった。
確信:「上滑り」という感覚
ある日、厚めの本を読んでいた。
本来なら、数日〜数週間かかる本だ。
それが、2時間で終わった。
読み方は変えていない。
内容も薄くない。
なのに――
「あれ?もう終わった?」
そんな感覚だけが残った。
そして、内容が何一つ思い出せない。
この瞬間、ようやく気づいた。
読めているのに、
理解が生成されていない。
文字は入力されている。
だが、意味に変換されていない。
これは「集中力の問題」ではない。
処理工程そのものが落ちている感覚だった。
生活への影響:読むだけで、リソースが枯れる
その状態は、日常に直撃した。
本が読めないこと自体は、耐えられた。
だが、必要な書類が読めないのは致命的だった。
理解しようとすると、頭がざわつく。
読むだけで、強い消耗が起きる。
書類を書くために、
体調を数日かけて整え、
10分書いたら、その後は何日も動けなくなる。
手は汗で濡れ、
文字を書くという行為だけで、
システムが限界を超える。
重要なのはここだ。
壊れているのは、「意味生成」工程だった。
ロジカルOS的解釈:入力は正常、変換が停止している
人は文字を読むとき、
無意識に「意味」や「映像」に変換している。
これは高度な処理だ。
入力 → 変換 → 理解
という複数工程がある。
この状態では、
- 入力:正常
- 変換:停止
- 出力:生成されない
という状態になっていた。
つまりこれは
能力が落ちたのではない。
システムが負荷制限をかけただけだ。
回復の指標は、はっきりしていた
回復は、劇的ではない。
だが、測定可能だった。
- 書類を書くために必要な準備日数が減る
- 書いた後の消耗期間が短くなる
最悪の時期は、
1枚書くために5日前から整え、
書いた後は3日動けなかった。
それが、少しずつ短くなっていった。
今では、本を読み、
こうして文章を書くこともできている。
これは「根性」ではない。
処理能力が段階的に回復しただけだ。
このログが伝えたいこと
もし今、
そう感じているなら、
それはあなたの怠慢でも、能力低下でもない。
システムが、生存のために制限をかけているだけだ。
読めない期間があってもいい。
処理できない時期があってもいい。
必要なら、
誰かに要約してもらえばいい。
代替手段を使えばいい。
それは甘えではない。
正常なリソース管理だ。
フェーズ0ログとしての結論
読めない=壊れた、ではない。
読めない=処理工程が停止している。
回復とは、
止まった工程が、
少しずつ再起動していくプロセスだ。
これは、その記録である。

