思考の燃費が尽きた理由
――他人の非効率を「正解」として生きた、生存戦略の論理
「私の崩壊は、会社で起きたのではない。
幼少期に脳へ書き込まれた“生存戦略の論理エラー”が、
40年かけて限界に達しただけだった。」
今なら、そう断言できる。
これは感情論ではない。
極めて論理的な燃料切れの話だ。
私は長い間、自分が処理している情報量が、周囲と大きく違うことに気づいていなかった。
細部に気づき、構造を読み、先を予測する。
その能力は同時に、世界が「異様に非効率」に見えるという現象を生み出していた。
だが、幼少期の私にとって、その非効率な世界は逆らえない絶対的な権威だった。
生存戦略の論理的エラー
――自己否定を前提とした最適化
私は母子家庭で育ち、夜の繁華街が生活圏だった。
母に迷惑をかけるという選択肢は、存在しなかった。
周囲にいるのは、母と利害関係を持つ大人たち。
私は彼らの振る舞いを観察し、分析し、
「母にとって都合の良い空気」を作ることに全リソースを割いた。
ここで確立した論理は、こうだ。
- 自分の感情や論理は不要
- 権威側の期待が「正解」
- 正解に合わせることが、生存条件
これは、機能特化CPUに対して
「最適解を出した直後に、それを否定し、非最適解を実行せよ」
という命令を与え続ける構造だった。
この時点で、思考の燃費は破壊的に悪化している。
感情の二重処理という基本設計
私は自分の感情を感じる前に、
「相手がどう感じるか」を常に先に処理していた。
自分の内側で生じた反応を一度殺し、
外部の正解を上書きする。
これが、後に私が名付けた
「感情の二重処理」だ。
この設計は、子どもとして生き延びるためには合理的だった。
だが、燃費は最悪だった。
無意識の転用
――「非効率の補強」という働き方
社会に出てからも、この戦略は無意識に使われ続けた。
上司の提案より、合理的な代替案が見える。
だが、それを「正解」として扱えない。
結果、私はこう動く。
- 表向きは上司の非効率案を採用
- 裏側で自分の最適解を投入
- なんとか成功させる
つまり、他人の非効率を補強するために、全力で燃料を燃やす。
それでも私は
「相手のほうが正しい」と感じていた。
この時点で、自己評価と実際の処理能力は完全に乖離している。
権威性との最終摩擦
――論理が破綻する瞬間
管理職になり、自分の判断が通る環境では、
私は成果を出し続けた。
「任せる」と言われれば、必ず成功させる。
ここだけが、脳にとっての例外的な休息期間だった。
だが、状況は変わる。
絶対的な権威性を持つ上司が、直属とその上に配置された。
彼らの判断は、私の目には明確に非効率だった。
それでも、幼少期からのプログラムは止まらない。
- 彼らの「正解」に合わせる
- 朝令暮改をすべて回収
- 成功しそうになると介入され、手柄は奪われる
- 失敗は私の責任
そして、決定打となった言葉。
「あなたは今の役職でも、更に二つくらい上の役職仕事をしてくれている。
それを今より昇格させるメリットは、会社にありますか?」
その瞬間、
最後に残っていた自己肯定の駆動プログラムが停止した。
論理的結論
――燃料切れは、必然だった
この生存戦略は、
「常に自己矛盾を抱えたまま最適化し続ける」構造だ。
短期的には機能する。
だが、長期運用に耐える燃費ではない。
私が止まったのは、弱さではない。
論理的に必然のオーバーヒートだった。
回復とは、戦略の更新である
必要だったのは、意思の強化ではない。
生存戦略そのものの更新だ。
これが、再発を防ぐための現実的な道筋になる。

