優秀さは「コスト免除券」だった

ストーリー

優秀さは「存在コスト」を相殺する通貨

なぜ、人一倍努力し、結果を出し続けてきたはずなのに、 常に「お金の不安」と「満たされなさ」から逃れられなかったのか。

それは意志の弱さでも、価値観の問題でもない。

私の思考OSに組み込まれていたのは、 自己価値を金銭に換算し続けなければ、生存が保証されないという、 一つの生存戦略だった。

この記録は、 「優秀であること」が自己肯定を生むのではなく、 存在コストを相殺するための通貨として使われていた、 その論理の解剖ログである。

優秀さの裏側にあった、金銭という拘束条件

私の中で「結果を出すこと」は、誇りではなかった。 それは常に、

  • 迷惑をかけていない証明
  • 生きていていいという許可証
  • 今日の存在を成立させるための支払い

だった。

成果を出している間だけ、 私は“赤字ではない”と感じられた。

逆に言えば、 成果を出せない自分は、 誰かの人生を圧迫するコストでしかないという前提で、 世界を見ていた。

「存在=コスト」という基本設定

私の家庭は、幼い頃から経済的に不安定だった。

母は働いておらず、 生活は、血縁関係のない一人の男性の援助に依存していた。

その男性は、 母の夜の仕事の客だった人物で、 家庭を別に持ちながら、 週に数回、私たちの家に現れた。

彼が来る日は、 家の空気が変わった。

母は化粧をし、 食卓は少し豪華になり、 私は「良い子」でいることを求められた。

この援助が止まれば、 生活が立ち行かなくなる。

その事実は、 私の脳にこう刻み込まれた。

自分は、常に“誰かに養われている存在”である

優秀さという取引

当初、その男性にとって、 私は歓迎される存在ではなかった。

母の目を盗んで、 叩かれたり、つねられたりすることもあった。

だが、私は観察していた。

彼が求めているのは、 「優秀な子どもの親である自分」 という物語だということを。

彼には複数の子どもがいたが、 いずれも私より年上で、 世間的には問題児と見なされていた。

そこで、 私の思考は一つの契約を結ぶ。

優秀さを提供する代わりに、 生存を保証してもらう

感情ではない。 生き延びるための、合理的な取引だった。

成果が、金銭に変換された瞬間

私の成績は、 実際に金銭価値を持つようになる。

塾では、 成績優秀を理由に学費免除で通っていた。

これは明確な変換だった。

  • 成績 = 学費の免除
  • 努力 = 家計負担の軽減

「優秀であること」は、 抽象的な評価ではなく、 存在コストを削減する実利になった。

ここで、 私の中の等式が完成する。

自分の価値 = マイナスコスト
自己の存在を許すための絶対条件「コストゼロ化」

人生の選択権が消えた日

私は医療の道を志していた。

受験では、 医学部や薬学部に合格し、 努力が報われたという実感もあった。

だが、 返ってきた言葉はシンプルだった。

「大学には行かせられない」

理由は、経済だった。

そこで私は、

  • 学費免除があること
  • 自宅から通えること

この二条件だけを満たす進路を選んだ。

興味や志ではない。 コストゼロで成立する人生を選んだのだ。

社会に出てからの、無限支払い

社会人になっても、 この構造は変わらなかった。

「給料をもらっているのだから、 給料以上に働くべきだ」

この論理は、 極めて自然に私の中で稼働した。

部署で大きな成果を出し、 莫大な売上を作っても、 思考は止まらない。

まだ足りない もっと支払わなければ。

成果は、 安心をもたらすものではなかった。

それは、 今日の存在を辛うじて黒字にした通知にすぎない。

明日になれば、 またゼロからの支払いが始まる。

優秀さが、エンジンを壊した理由

「優秀さ=コスト免除券」という設定で動く思考は、 止まる理由を持たない。

休むことは、 再び赤字に戻ることと同義だからだ。

この構造が、 40年近く続いた結果、 エンジンは燃料切れを起こした。

壊れたのは、 心ではない。

回り続けるしかなかった構造だった。

このログが示すもの

この記録は、 努力を否定するためのものではない。

ただ一つ、 問いを残すためにある。

あなたの「頑張り」は、 何かの支払いになっていないか?

優秀さが、 自由を広げるものになるのか。

それとも、 存在を許可するための通貨になっているのか。

それを区別しない限り、 どれだけ成果を積んでも、 安心は訪れない。

この文章は、 その構造を可視化するための、 一つのログである。