はじめに:すべての始まりは突然に
私は、重度のうつ病と診断されてから3年が経ちます。
このブログでは、私が限界に気づいた日から、ドクターストップ、休職、そして現在の回復に至るまでのすべての実体験を正直にご紹介しています。
うつ病で苦しんでいるご本人、ご家族、そして「もしかしたら自分も?」と不安な方へ。この記録が、あなたの一歩先の参考になれば幸いです。
限界サイン:仕事から離れても鳴りやまなかったSOS
その出来事が起きる日、私は母の病院の送迎のために仕事を休んでいました。毎月唯一、私が希望を出して休む休日です。
当時、私は母の家とは違う県で勤務しており、片道約3時間かけて車で向かいます。母の家から病院までは、車で15分程なのですがタクシーには乗りたくないというので、毎月私が病院まで送迎をしていました。
実際のところは、息子に会いたかったというのが本当の理由なのでしょう。ただ、そのために高速代やガソリン代を使います。当時私は車を持っていなかったので、レンタカーを1日借りて送迎をしました。
母の家から病院までは、タクシーであれば2,000円もあれば着く距離です。それを10倍以上のお金と、往復6時間以上かけて送迎に行きます。当時私は、それが私の義務だと思っていました。
母子家庭の息子で、他に面倒を見てくれる人はいません。80歳近い母を養うためには仕事が必要で、その仕事の一環で県外に行っている。仕方がないことなんだと捉えていました。
当時の県より前には、4カ月ほど他県の支社に勤務していました。その支社からは高速で母の家まで片道6時間かかっていたので、前泊して病院に連れて行っていました。前泊する場所は、母の家ではありません。母の家には私は入ることができないので、母の家がある県の、私が借りたままにしていた私の家にです。
今考えればもっとやり方はあったのかもしれませんが、その頃の私にはこれが当たり前でした。
大変ではありましたが、仕事から確実に離れられるわずかな時間でもありました。母の送迎の日もいつもと変わらず、私のスマートフォンには仕事のメールや電話連絡が続々と来ます。
ただ、車を運転していることを会社に公言しているので、出る必要がないのです。対応までの時間的猶予があることが、私にはいつもにはない解放感のようなものにつながっていました。
そしてその日も、いつもと変わらず車内で音楽を聴きながら運転をしていました。
見過ごしていた体のサイン【うつ病の初期症状】
私はその時点ではまだ、特に体力や気力の限界は感じていませんでした。「仕事が嫌だな。」という感覚はありましたが、それは今に始まったことではありません。
社会人になった時から営業マンとしてノルマに追われ、ストレスはたくさんありました。それに新卒で入社して半年後には、年上の部下を持っていましたから苦労はしていたと思います。
その時代の教えとして、「お金をもらうのだから、嫌なことや大変なことはあって当然。」というものがありました。その教えに私は、「そうだよな、確かに。」と納得していたので、自分が持つ「仕事が嫌。」という感情に違和感を覚えなかったのです。
しかし、私の体は1年以上前から、明確なSOSサインを出し続けていました。
頭痛:「薬の回数増加」と「嘔吐」が常態化
私は中学生くらいの頃から、元々日常的に頭痛がありました。その頃は「偏頭痛」という言葉もあまり知られておらず、「頭痛くらい、大したことない。」が一般的でした。脳神経外科や内科、外科、様々な病院で検査をしましたが原因は分かりませんでした。
いつもは薬を飲めば治るくらいの頭痛です。ただ、時々ひどい頭痛が起きていました。目の奥が痛くなり、痛みで眠ることもできません。痛みで、のたうち回ることもしばしばありました。回数を重ねるうちに、氷で冷やすか、お湯で温めたおしぼりで温めるかのどちらかで痛みが和らぐことに気づきました。冷やすか温めるかの判断は、その時の私の感覚です。間違った方を選ぶとさらに激痛になり、痛みが続きます。
そのうち、嘔吐すると少しだけ楽になることに気づきました。頭痛がひどくなり始めると、指を口に突っ込んで先に嘔吐するようになりました。そして高校生くらいには、手を使わなくても必要な時に嘔吐できるようになっていました。これは私の感覚なので、真似はお勧めできません。
そして、それは社会人になってからも日常としてずっと続いていました。
この限界に気づく日の頃も頭痛はありましたが、私からすれば平常運転のつもりでした。そして、私は気づいていませんでした。この日までの1年足らずの間に、いつの間にか薬は効き目が強いものに変わり、飲む回数も増えていたのです。今思い返せば、最初は週に1回。それが2回、3回と増えていて、
この日の2カ月前くらいからは、ロキソニンを毎日3回飲んでいました。
本人はそれまでと変わらず、できるだけ頭痛を我慢して我慢して。どうしても痛い時だけに飲んでいたつもりです。
それでも治らない時は、学生時代同様、職場のトイレで嘔吐して紛らわせていました。
【頭痛の常態化は体のSOSサインです。私が経験から語る具体的な見分け方と対処法はこちらで詳しく解説しています。】
下痢:「血便」すら日常になっていた
お腹の調子も気がつけば、最悪の状態でした。ただ、それにも私は気づいていません。
限界に気づく日の1年ちょっと前から少しずつ軟便が増えていました。そして、この頃には下痢が当たり前の感覚になっていたのです。腹痛はそこまでありません。ただ、出る便が常時下痢なだけです。たまに血が混ざっていることはありましたが、お尻が切れたのだろうとあまり気にしていませんでした。
そして、この頃にはほぼ毎日、トイレットペーパーには血がついていたのですが、私はすでに慣れてしまっていたので、気にしていませんでした。
休職して1年くらい経った頃に、自分の体から形がある便が出たことにひどく驚き、妻に走って報告に行ったのを覚えています。2年以上、下痢が続いていたことになります。
微熱:平熱35.2℃の体が「毎日36℃台後半」に達するまで
正直、これが一番体力を奪っていたように思います。これは体感がありました。熱っぽい、頭がボアボアする日が、徐々に増えていっていました。これもやはり、他の症状と同じくらいの時期から始まりました。
私がうつ病と診断されたのが2022年7月なので、新型コロナウイルスでの大騒ぎがようやく落ち着き始めた頃です。GoToTravelなどの施策が行われていた頃というとイメージがつきやすいでしょうか。マスクや手の消毒、毎日の検温などは徹底されているが、人の往来の制限は解除された頃です。
私も出勤時に、事務所で体温を計ります。最初は、「ちょっと今日は、体温が高いな。」という日がたまにあったのですが、それが徐々に増えていきました。そして、1週間に2~3日だったのが4~5日に増え、そしてほぼ毎日になっていきます。
会社からは37度を超えた場合は、無条件に帰宅させる指示が出ていました。それは私にも課せられるルールでした。
ただ、私は平熱が低かったためその指示に該当することはなかったのです。私の平熱は35.2度前後。これは学生時代からずっとです。そのせいで、私自身が熱っぽいと感じていても37度を越えないのです。検温は出勤時だけでした。夜、家に帰って計ると35度前後です。34度台ということもありました。
そして毎日微熱があるわけではないので、
「歩いて出勤してすぐだからだろう。」
「事務所の体温計がおかしいかな。」
「計り方の問題かな?」
と言っているうちに、36度台が出る日数が増えるので
「平熱があがったのかな?」
なんて、のんきな話になっていました。
実際は、体が拒否反応を起こしていて出勤時には平熱から2度近く高い熱を出していて頭が朦朧としている状態だったのだと思います。夜には熱が下がっているので、体が慣れることはありませんでした。常に熱っぽいにも関わらず、それを無視して気のせいだと働いていました。
ちなみに事務所から新型コロナウイルス感染者が出た際に、PCR検査を何度も受けさせられていたので、感染していたわけではありません。
全てが崩壊した瞬間
これだけ体がSOSのサインを出していても、私は気づきませんでした。「私は大丈夫。」という先入観もあったのかもしれません。
そして、束の間の仕事からの解放感を感じつつ母の家に向かいました。
病院で母の診察を終え、母を家に送ります。一緒にスーパーで買い物などもしますが、一緒にご飯を食べることも、母の家で一服することもありません。
帰り道
月に一回の、母の病院への送迎という任務を終え、高速道路を走ります。
運転は学生時代に運転免許を取った時から好きなので、私はご機嫌です。
束の間とは言え仕事から解放され、好きな車の運転をしながら、好きな音楽を聴いている。
天気も良く、車の流れも順調。もう数時間走れば、最愛の妻が家で待っていてくれる。
美味しいご飯を作っていてくれて、私の帰る時間に合わせてお風呂も入れてくれている。
幸せなひと時です。
そこに私が大好きなバンド、ELLEGARDEN(エルレガーデン)の曲が流れてきました。
私も妻も、ELLEGARDENが大好きです。
その曲を聴きながら
「今日も、いい日だったな。」
そう思った はずでした。
なのに。
気がつけば、自分の両目から涙が流れています。自分でもなぜ泣いているのか分かりませんでした。今日の任務が終わり、気持ちよく運転していたはず。
「なんで?」
一人の車内で、思わず声が出ますが分かる人は誰もいません。ただ、どんどん涙が流れ出てきて嗚咽も出始めます。
ちょうどあったサービスエリアに入ることが出来ました。それからどれくらいの時間でしょうか。薄暗くなってきた車内で、一人で声を押し殺して泣き続けました。
私の中からの叫びだったのでしょう。私がすべての限界に気づいた瞬間でした。
風の日の始まり
それから家に帰って、妻に「仕事を辞めることにする」という話をしました。
妻は「そうしよう。それがいい。」とすぐに同意してくれました。
それから自分が居なくなってもうまく回るように、引継ぎ資料や役割分担を会社に気づかれないように行いました。それから2ヶ月かかりましたが、無事に休職に入ることができました。
この状況でも、会社が回るように根回しした自分。そして休職してからも1カ月は起床しているわずかな時間で、メールや緊急対応などのやり取りを捌き続けた自分はすごいなと思うと同時に、イカれてたなと思います。イカれた責任感の賜物です。今となっては、正しい行動だったとはまったく思えません。
「限界を迎える前に」とよく言われますが、自分に興味を持つということもすごく大事なことだと感じます。体が出していたSOSのサインを、すべて気のせいだと無視し続けていたのです。
ELLEGARDENの事務所公式YouTubeチャンネルへのリンクを貼っておきます。どんな意味に聴こえるかは、聴く人によって様々だと思います。ただ、私を救ってくれた曲であることは間違いありません。
私は長い間、寒い日も寒くないと言い、雷も怖くないと強がり、月を見上げる余裕もなく過ごしていました。
限界サインを自覚するための習慣や、この経験から生まれた考え方については、ぜひ【Satsuki式マインドセット】や【再発防止のための習慣】カテゴリの記事もご覧ください。
【重要】免責事項と信頼性について
恐縮ですが、私には医学的専門知識はございません。
ここに掲載している内容は、すべて私個人の実体験に基づいてお話していますが、医学的根拠はございません。 餅は餅屋です。体調についてご不安な方は、必ず専門の医師の意見を仰いでください。
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