「自分はメンタルが弱い」
「体力がない」
「みんなは普通に働けているのに、自分だけが壊れた」
仕事で動けなくなったとき、多くの人はそう結論づける。
朝起きられなくなった。
集中できない。
涙が出る。
体が重い。
だから、「自分は壊れやすい人間なんだ」と思う。
けれど、その結論は早い。
あなたは壊れやすいのではない。
止まれない設計だっただけだ。
止まれなかったという事実
体調が悪くても、「まだいける」と判断したことはないだろうか。
私は、正にこの状態だった。
眠れていない。
食欲が落ちている。
明らかに疲労が蓄積している。
それでも出勤する。
「このくらいで休むのは甘えだ」
「迷惑をかけたくない」
「期待を裏切りたくない」
そう考えることに、疑問を持たなかった。
休むという選択肢は、理屈では存在していた。
だが実際には、選択肢として機能していなかった。
限界は徐々に近づいていた。
それでも自覚は薄い。
そしてある日、突然止まる。
そして思う。「私は自分が思っていたほど、強くはなかった」と。
しかし、この「突然」は、本当に突然だったのだろうか。
過剰適応という構造
止まれない人は、意志が弱いのではない。
むしろ逆だ。
環境への適応能力が高い。
・空気を読む
・期待を察知する
・役割を果たそうとする
・迷惑を避けようとする
これらは高度な能力だ。
だが、その適応が常に“外部優先”で回るとき、
内部観測は後回しにされる。
仕事という場では、構造はこうなる。
入力:評価・締切・役割・周囲の空気
処理:自分の状態より成果を優先
出力:高パフォーマンス・高消耗
この処理が無意識で繰り返される。
重要なのはここだ。
止まる、という分岐が存在していない。
止まる=怠け
止まる=評価低下
止まる=価値の喪失
そう学習していると、身体の信号はノイズとして扱われる。
身体は限界を出していた。
ただ、その信号を優先処理する回路が後順位に置かれていただけだ。
だから、気づかない。
強みが燃料になる
さらに厄介なのは、あなたの“強み”が加速装置になることだ。
責任感がある。
真面目である。
忍耐力がある。
共感力が高い。
本来は資産であるこれらの特性が、
外部優先アルゴリズムの中ではアクセルになる。
ブレーキの弱い高性能エンジン。
高耐久。
高出力。
高損耗。
壊れやすいのではない。
壊れるまで動けてしまう。
だから、止まるときは急停止になる。
「弱さ」という誤認
動けなくなったあと、
多くの人はこう考える。
「もっと強ければよかった」
「根性が足りなかった」
「他の人はできている」
だが、問題は強さの不足ではない。
設計の偏りだ。
外部評価を優先し続ける設計。
止まる分岐を持たない設計。
内部観測を後回しにする設計。
その帰結が、停止だった。
それを“弱さ”と呼ぶのは、構造の誤読だ。
まず、責めなくていい
止まれなかった自分を責めなくていい。
あなたは怠けたのではない。
むしろ、過剰に機能していた。
壊れやすいのではない。
壊れるまで耐久してしまう設計だった。
それだけのことだ。
ここから先の話
では、なぜ自分の異常に気づけなかったのか。
それは「観測」の問題だ。
内部の負荷を検知する仕組みが、十分に働いていなかった。
これはフェーズ0で扱う。
そして、休もうとすると湧いてくる罪悪感。
それは内在化された評価コードの作動だ。
これはフェーズ1で扱う。
いま必要なのは、ひとつの再定義だけだ。
あなたは壊れやすいのではない。
止まれない設計だっただけだ。
設計は、変更できる。

