【ギフテッド・AC向け闘病記】思考の燃費が尽きた論理:他人の非効率を正解とした40年の生存戦略

闘病体験記

生存戦略の論理的エラー

「私のうつ病は、会社で発症したのではない。あれは、幼少期に脳に組み込まれた、致命的な『生存戦略の論理的エラー』が、40年後に限界を迎えたという、極めて論理的な燃料切れだった。」

もし、過去の私にそう忠告できたら、その後の人生は変わっていたかもしれません。

私は長い間、自分が得ている情報量が、他の人と比べ物にならないほど多いという事実に気づいていませんでした。その細かなことに気づく、分析できるという情報処理能力は、周囲の人間関係や、世の中の仕組みが、あまりにも非効率に見えるという現象を生み出しました。

しかし、幼少期の私にとって、その「非効率な周囲」こそが、自分の生存を握る絶対的な権威でした。私は母子家庭で、夜の繁華街で育ちました。母に迷惑をかける選択肢はなく、周りにいるのは母の客でした。「自分の論理は間違いだ」「周り(権威)が言う非効率こそが正解だ」と自分の考えを否定し、無理やり自分以外の人のやり方を脳に上書きし続けることが、私にとっての唯一の生存戦略だったのです。

これは、機能特化CPUに対し、「最適解を出力した直後に、その最適解を否定し、非最適解を実行せよ」という、自己破壊的な命令を延々と出し続ける行為でした。

この「自己否定による燃費激悪な思考回路」が、私の脳という名のエンジンを幼少期から休むことなく蝕み、成人後の多忙な職務経験の中で決定的なオーバーヒート、すなわちうつ病という名の論理的帰結を招いたのです。

この体験記では、私の幼少期の生存戦略の論理的な起源から、それがどのようにして大人になって破綻に至ったのかを、現在のSatsuki式マインドセットの視点から分析していきます。

論理の起源:幼少期に組み込まれた「感情の二重処理」

私は幼少期から、「母に迷惑をかけてはいけない」というスタンスが身についていました。それは、母から「あなたのためにお母さんは頑張っている」と言われ続けた影響もありますし、まだ子どもながらに「母が強い人間ではない」と察知していたからということも理由です。

その考え方を持って、母の夜の繫華街にあるお店にも出入りしていました。周りは母の客と関係者ばかりで、母と利害関係を持つ人たちばかりです。私は、母の仕事が円滑に進むよう、周りの大人たちの行動を観察し、分析することに全エネルギーを注ぎました

「客が好むこと」、つまり「母と客の利害関係がうまくいくこと」を絶対的な『正解』として設定し、行動します。それは、「私が何をしたい」「私が何が好き」はどうでもよく、「相手が求める子どもらしさ」に合わせるという、自己否定そのものでした。

今考えれば、これが「感情の二重処理」の始まりです。

自分の内なる論理と感情を無視し、外部の権威が提示する非効率な『正解』を無理やり自分の脳に上書きし続ける。この燃費激悪な生存戦略が、私の思考回路の基本設計となってしまいました。

戦略の無意識的転用:「非効率の補強」という高コストな働き方

成人するころまで、生きるための「感情の二重処理」は日常生活まで入り込みました。それは私にとっては無意識的なもの、やっていることにも気づくことがなくなった習慣的なものになっていました。私から見れば非効率な大人の世界に対する適応ツールとして機能していたのです。

社会人になり、上司や部下という大きな利害関係の中に身を置くことで、この戦略は更にエスカレートします。

私には常に、上司の提案よりも効率的で合理的な方法が浮かんでいました。しかし、幼少期からの「自分以外が正しい」という考えが無意識に染みついているため、その非効率を『正解』として受け入れ、全力で成功に導くのです。

具体的には、上司の非効率なやり方のベースは保ちつつ、見えない部分を私の最適解で補強して、強引に成功させるようなイメージです。それでも私自身としては、相手のアイデアの方が優れているような感覚を持っていました。

仮に私が浮かんでいるアイデアを提案してみても相手に理解してもらえず、「あなたはできるかもしれないけど、再現性がない」という、論理的摩擦の中で却下されることが大半でした。

こうして、私は「他人の非効率な正解」を担保するために、自分の機能特化CPUを二重処理という名の膨大な無駄な作業常時割り当てることになりました。

権威性との最終摩擦:論理的破綻に至った決定打

しかしその状況は、管理職になって変化しました。

組織のトップや責任者として仕事をする時は、自分のアイデアを「正解」として実行し、
「ミスターパーフェクト」
そう言われるほどの実績を積み上げることができました。自分の論理をフルに活用できた、脳にとって唯一の休息期間だったのかもしれません。「お前に任せる」と言ってもらえれば、与えられた任務をすべて成功させていました。

うつ病への道が加速したのは、グループ会社の親会社から出向してきた、絶対的な権威性を持つ上司たちが私の直属、そしてその一つ上の上司になった時です。

その上司達は、学歴も社内経歴も輝かしいものを持っており、私がいた子会社ではその人達が「白」と言えば「黒」も白に変わる。親会社のホープ的な人材です。

しかしグループ会社であれど違う業界から来た彼らの提案は、私から見れば観察力も分析力も知識も何もかも足りていない、非効率なものばかりでした。

それでも、幼少期からの「自分以外の言葉が正解」というスタンスは無意識に働きます。私は彼らの言う「正解」に合わせ、全力で成功に導こうとしました。

しかし私と彼らは合わなかったのだと思います。彼らの「正解」は、毎日変わりました。文字通りの朝令暮改。ひどいものでした。しかもそれを「判断が早い」と自慢しているような人々でした。周りはそれに振り回されますが、彼らの権威性のせいで、あたかもそれが正しいように感じているようでした。

その周りとの調整を図り朝令暮改の尻拭いをし、そのころころ変わる「正解」を達成するために戦略を考え、実行し続けました。

そして更に私を追い込んだのは、彼らの狡さでした。「あなたに任せる」という言葉は形だけで、私が目的を100で達成しそうになったら、突然口を出してきて80くらいで着地させて「失敗しそうだったから助けてあげた。私のおかげで、失敗せずに成功で終われた」と手柄を奪います。手柄強奪も腹立たしいですが、完璧主義な私としては100行けるのに、不完全な80で着地させられることの方が腹立たしい思いでした。

そして流れが悪ければ、「あなたが失敗しそうだから中止。」と言い出します。私はそれまでの経験上、自分でリカバリーできないようなところまでは無理をしません。自分だけでリカバリーできる程度を知っているので、そこまでは失敗しても良いマージンとして考えています。そのままほっといてくれれば、リカバリーして成功まで持ち込みます

それなのに、それ以上の挑戦はさせてもらえず、「失敗はあなた」「成功は私」が続きます。それが私の上に二人もいるのです。力を発揮する仕事をさせてもらえない日々が続きました。

そして、決定打になったのがその2人のうちの上の上司でした。私の役職昇格試験の面接官の一人でもあったのですが、社長の前で質問をされました。

「あなたは今、組織で大活躍している。今の役職の更に2つ上くらいの役職仕事をしてくれている。今の役職でもそのくらい働いてくれているのに、あなたの役職を今より上げることは会社になにかメリットがありますか?」

力を発揮する仕事をさせてもらえないもどかしさ、狡猾さへの苛立ち。そういったフラストレーションを懸命に抑えつけていた何か。幼少期から組み込まれた、最後の『自己肯定のための駆動プログラム』。それが、その負の感情の原因である張本人からのこの言葉を受けて、音を立てて崩れていくような気がしました。

しかしその言葉さえ、「自分以外の言葉が正解」という考えは無意識に働き、その言葉が思い出される度に自己否定に至りました。

結局その昇格試験に合格し、役職の昇格はしましたが、その役職としてほぼ勤務することなく退職しました。

Satsuki式・論理的な原因分析と回復への道筋

幼少期に確立した生きるための戦略は、機能特化CPU「常に自己矛盾を抱えて働け」という命令を与え続けるものでした。

そしてその命令が、その時の最適解であり、学生時代まではうまく機能していたのだと思います。しかし「感情の二重処理」という根本的に無理があり、思考の燃費があまりに悪いこの戦略は、40年近くの時を経て破綻しました。

うつ病は論理的な燃料切れだったのです。

自分自身の「やりたいこと」「論理」「感情」を否定することをやめ、自分自身の中に「答え」があると認めることが大切なリニューアルです。その答えが正解かどうかは、誰にも分かりません。正解なんてないのだと、今は思います。自分自身の中にある「答え」を見つけることが大切なのです。

そのために自分の中にある様々なものを整理する「思考の交通整理」を活用することは、再発を防ぐために有効な手段です。

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