【ギフテッドの論理】「除雪車」が示すうつ病に至る思考回路の設計図

Satsuki式マインドセット

はじめに:「変わっている子」と言われた経験から始まった自己分析

うつ病で自分と向き合う経験を得た今でこそ、「ギフテッド」という言葉を受け入れていますが、「ギフテッド」という言葉は、私にとって長年、自分とは無関係なもの、あるいは否定すべきものでした。

私は幼少期、小学校に「砂月君は、他の子たちと比べて、少し変わっている子のようでして…」と呼び出された経験があります。それは褒め言葉ではなく、問題児にも似たレッテルでした。

私は幼いころから、
「秀才であるのはいいけど、出る杭は打たれるから、出すぎないようにしなさい。」
と、「普通」であることを求められて育ちました。

学校に呼び出された後も、「変わった子だと言われるから、みんなの真似をしなさい。」と言われました。以来、私は「出る杭」にならないように、「みんなと同じ」であるように、異常なまでにエネルギーを注いできました。

それでも、大人になってうつ病で立ち止まった時、自分自身を分析する中で、「アダルトチルドレン(AC)」の概念と共に、この「ギフテッド」という特性に行き着きました。

以前は、「私が育った環境は少し変わっているかもしれないが、その育ち方や環境が私の思考に影響を及ぼすような要素はない」と認識していました。

しかし、世の中で私のことを一番理解してくれている妻と分析を進めていくうちに、私はこのギフテッドの特性こそが、「うつ病に至る思考回路の設計図」を読み解くための論理的な鍵であると捉え直すことにしました。

この記事では、私が自己否定し続けてきたこの特性が、いかにして「頑張りすぎる私」を生み出し、うつ病という破綻につながったかを、論理的に解体していきます。

Satsuki式:ギフテッドの定義を「うつ病のリスク要因」として読み解く

ギフテッドの定義は国や機関によって異なりますが、ここではギフテッド教育の専門家、ジョセフ・レンズーリ博士の三環説を参考に、私の「生きづらさ」と直結した3つの要素に絞って論理的に分析します。

私にとってギフテッドの特性は、世間でイメージされる「天才の能力」としてではなく「うつ病のリスクを高める構造的な欠陥」として機能しやすかったのです。

リスク要因となる特性Satsuki式・論理的リスクうつ病に至る思考回路への影響
平均以上の能力(分析力・観察力・完璧主義)過剰な自己責任「自分の力や努力で何とかしてきた経験」から、問題解決を外部に頼ることを許さないという誤ったロジックが生まれる。
その結果、すべてを自分の責任として抱え込む。
創造性(型にはまらない思考)周囲との違和感・孤独型にはまらない独創的なアイデアが、周囲に理解されず、結果的に「自分の意見は間違っている」と自己否定を始めるルーツになる。
コミットメント(課題への集中力)過剰な負荷と燃焼非常に強い探求心と集中力が、疲労や感情の警告信号を無視することを可能にし、過労による破綻(バーンアウト)を招く。

私自身、IQは140程度あり、受験の際の偏差値も70を超えていました。社会に出てからは「完璧主義者」として、仕事では多少の無茶ぶりは全部解決する「ミスターパーフェクト」と呼ばれている時期もありました。

しかし私は、すべてを完璧にできるわけではありません。苦手なことはありますし、知らないことも山ほどあります。自覚としては「才能の人」なんかではなく、「努力でなんとかする人」でした。

しかし、この周りとの違和感がある特性を持つがゆえに、「頑張る価値すら感じなくなった社内環境で、なんで自分はこんなになるまで、頑張ってしまったのか?」という自問自答に行き着き、すべてを自分の「能力不足」や「感情の弱さ」として処理しようとする傾向が生まれていました。

なぜ「才能」として機能しなかったのか?〜日本の文化的背景と衝突〜

私の特性が「才能」ではなく「生きづらさ」として発現したのは、自分の中にあった特性(ギフテッド特性)日本の文化的背景が激しく衝突したからです。

当時、私は自分が「ギフテッド」という枠組みに当てはまるなどとは一切知りませんでした。にもかかわらず、この周りとの違和感を感じる私自身の能力や思考の特性が、以下の文化的な抵抗にさらされていました。

  1. 「ギフテッド=天才」という誤解との衝突
    日本では「何でもできる超人的な天才」という非現実的なイメージでとらえられがちです。特定の分野だけが異常に得意、他は異常に不得意という特性は、そのイメージにそぐわないため、外部からも内部からも「本当にギフテッドなのか?」「ただの勘違いなのではないか?」と疑いの目を向けられます。能力のムラは許されないのです。
  2. 自己アピール(特性の主張)への文化的抵抗
    日本社会に根強くある「謙虚さ」を美徳とする文化は、「自分は他の人とは違う」と主張する(またはそう受け取られる)ことを協調性を欠いた「傲慢な態度」だと見なします。「出る杭は打たれる」という教えは、この文化的抵抗を表しており、当時の私にとって最も注意すべき考え方でした。

この文化的背景により、私は自分の周囲との違和感と自分自身の特性を徹底的に否定し、隠し続けることを選択しました。文化的背景との衝突を避けるために、感情の二重処理は私の日常となったのです。

「普通」を演じることの論理的コストと、感情の二重処理

「変わった子だと言われるから、みんなの真似をしなさい」と言われて育った私にとって、「普通」を演じることが、その環境下での生存確率を最大化する最も論理的な戦略でした。

自分がギフテッドであるという言葉も分類も知らないまま、その特性を隠すことに専念した結果、その戦略は、成人後に極めて高い論理的コストとなり破綻しました。

  • 違和感の全てを否定する
    授業が退屈なこと、大人としか話題が合わないこと、使った言葉を理解してもらえないこと、ルールの矛盾に気づいてしまうこと——これらすべてを「自分が間違っている」として処理しました。
  • 「普通」を演じるための高い燃費
    「普通」を演じるためには、本来の思考回路を抑圧し、常に二重の処理を行う必要がありました。これが、私が提唱する「感情の二重処理」であり、思考の燃費を極度に悪化させた根本原因です。

私は、「自分は特別ではない、ただ間違っているだけなんだ」とひたすら言い聞かせて生きてきました。

ですがうつ病と闘病し、自分自身と向き合い分析していく中で、そのように私がことごとく否定し続けてきたことと同じ体験をしている人達の話に出会うことができたのです。

共通点がありすぎて、無視したり、気づかないふりをしたりすることすらできませんでした。自分が隠し続け、否定し続けてきた部分が間違いではなかったのだと、自然と涙があふれました。

私がうつ病に至った思考回路は、「感情的な弱さ」ではなく、「幼少期に最適化された論理的な適応戦略」が、大人になって限界を迎えて破綻したものだったと、客観視することができたのです。

結論:ギフテッドは「スーパーカー」ではない。「除雪車」の論理。

私は、ギフテッドをよく聞く「スーパーカー」に例えることには違和感を持っています。スーパーカーは、どこでも走れて速いという全能感があるからです。

私が考えるギフテッドは、「除雪車」です。

除雪車は普通車とは違うエンジンを積み、特殊な機能を持っています。一般道を走るには大きすぎるし、スピードも出ません。どちらかというと、一般道を走るには向いていない車です。

ただ、季節、地域、環境が揃った時は、どの普通自動車よりも力強く走り、機能を最大限に活用して活躍します。

そんな車が、ギフテッドなのだと考えます。

そして、その活躍できる「内なる環境」を整えることこそが、回復の道筋です。

自分のルーツを知り、その特性を否定するのではなく、「除雪車」としての論理を理解し、その機能が生きる環境(Satsuki式マインドセット)を自ら築く。それが、過去の「感情の痛み」を未来の「回復の力」に変える、最も賢明な予防策となります。

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