和美は24歳の時に結婚して以来、宗男の実家が経営する学生向けの下宿の手伝いをしていた。
そこまで大きな建物ではなかったが、十部屋程度を貸し出しており、入居者に朝食と夕食を提供していた。
この時代、数こそ減ってきていたが、まだまだ日本の多くの学生が下宿を利用していた。
玄関は建物に一つで、大きな靴箱に入居者達の靴が並ぶ。
風呂やトイレ、洗面などは共同である。
真っ直ぐに伸びる廊下の左右に規則正しく並ぶドアを開けると、それぞれ別の学生の部屋が広がる。
部屋は四畳半程度の広さに押入れが付いており、キッチンのようなものはない。
主に親元を離れて大学や専門学校に通う学生が入居しており、食事は同じ建物の中にある食堂で提供される。
宗男の実家の近くには国立大学があったため、入居者の大半はその大学に通う学生であった。
学生としては、食事の心配もなく、掃除も自分の小さな部屋だけで済むので、勉強にも集中しやすい。
しかも、経済的にもかなりの助けになることが入居の大きな理由になっていた。
その下宿を管理することになった和美であるが、料理は十数人分を一度につくり、掃除も個人宅の何倍もの労力が必要だった。
その指導をするのが義母ということもあり、大変な日々を送っていた。
今では嫁姑が友達のように仲が良いというのも珍しくなくなった。
しかし、この時代は「嫁いびり」「嫁姑問題」という言葉が一般的。
昼のテレビワイドショーなどで頻繁に取り上げられる、よくある家庭問題であった。
当然和美もその家庭問題の例外ではなく、日々心をすり減らしていた。
それでも、毎週日曜日は休みで、宗男と共に毎週末、自家用車で観光地やイベントに足を運んでいた。
下宿を経営している夫の実家で暮らし、夫は会社の経営者、そして義父は医者。
これを聞くだけでも裕福で余裕のある生活が想像できる。
そんな誰もがうらやむような生活から一転、愛していた人もいなくなり、住んでいた家も自分がしていた仕事も、すべてを一度に失った。
彼女の元には子どもだけしかいなくなった。
そして、その子どもも裁判の結果次第では、彼女の元から離れていく。
そんな極度に不安定な状態で、彼女は福岡市の博多区にある両親の家に、子どもを連れて身を寄せた。
彼女の両親は、借家の一軒家に住んでいた。
建物はかなり古いものではあったが、和美の母である美津子により中は綺麗に保たれていた。
そこには和美の両親である村上美津子と村上雄二、それに加えて和美の姉の子が三人、合計五人が住んでいた。
三人の子供たちの母親である村上江美は、和美の二歳年上の姉であり、数年前に離婚している。
そして江美本人は、新しい彼氏のもとで生活をしている。
村上姓は両親の姓である。
江美とその子ども達三人は離婚した時に、元の村上姓に戻していた。
砂月が石川姓のままであるのは、離婚した時に、和美が石川姓を名乗り続けることを選んだためだ。
江美は雀荘で働いていたり、お酒が好きで彼氏と共に毎日飲み歩いていたりして、ほぼ家にいない。
そのため前夫との子どもである3人は、この家に預けられていた。
長男で十四歳の信二、長女で十二歳の淳子、次男で十歳の直樹はこの家から学校に通っていた。
江美が生活している部屋も同じ小学校区内にあり、大きな問題はなかった。
授業参観などの学校行事もすべて美津子が参加していたので、実質的な母は美津子と言ってもいい生活を送っていた。
そこに砂月がまだ生まれたてで働くことのできない、和美の一家が転がり込んできたというわけである。
この家で寝泊まりしながら、砂月の成長を待ち望む。
そして美津子に砂月を預けられるようになったタイミングで、和美はホステスの仕事を始めた。
この時代、水商売への世間の風当たりは強く、隠して働くことが一般的であった。
不動産で職業欄に「ホステス」と書くだけで、どれだけ収入があっても借りられる部屋が少数に限られてしまうほどの時代だった。
和美に水商売の経験はなく、出来れば一般的な仕事に就きたい気持ちはやまやまではあった。
ただ、そんな悠長なことは言っていられない。
和美は子どもを一人で育てていく必要がある。
本当は美津子や雄二にも頼りたいが、すでに江美の子ども達がいる上に、二人とも六十歳を過ぎた年金暮らし。
経済的に頼るわけにもいかない。
なにより和美は、短時間で多く稼ぐことで、子どもと一緒に過ごす時間を少しでも長く確保したかった。
そうして和美は、九州一の歓楽街、中洲に足を踏み入れる。
幸いにも和美は持ち前の愛嬌と美貌で、中洲でも応援してくれる人々を増やし、少しずつ生活を安定させていく。
三十七歳で初めての水商売というなかなか見かけない経歴をものともせず、和美は頑張り続けた。
砂月が一歳を過ぎた頃、和美は美津子の家から徒歩五分ほどのところに新しく部屋を借りた。
仕事中に子どもを美津子に預けるのは変わりないが、和美には一刻も早く部屋を借り、独立したい理由があった。
裁判である。
子どもの親権について、まだ裁判中であった。
経済的に安定していないと、親権を勝ち取ることは難しい。
実家にいれば楽なのは間違いないが、実家は年金暮らしの両親と中学生以下の姉の子三人だけで、稼ぎ手は和美以外にいない。
裁判が有利になりそうな要素はなかった。
少しでも有利な条件を集めるために、美津子の協力を得つつ、毎日のように和美は働き続けた。
父親のいない家族には広すぎる部屋を借り、大きなタンスセットを部屋に並べ、子どもと一緒に寝るためのダブルベットも購入した。
それが果たして、裁判にどう影響するかは分からなかったが、誰が見ても
『問題なく子どもと一緒に生活できる。』
と思ってもらえるように、できることはとにかくやり続けた。
そして、砂月が二歳になるひと月前。
裁判が終わる。
争いに争った結果、砂月の親権は和美のものになった。
そして砂月の養育費も勝ち取るのであるが、和美は養育費を辞退する。
辞退したのは、和美のプライドなのか、最後の意地なのか。
貰っていた方が絶対的に楽なのであろうが、和美はそれをしなかった。
和美と宗男は二度と連絡すらとることもない、別れを迎えた。
それは砂月にとっても同じだった。
こうして父親はいなくなった。
砂月は父親の記憶を持たない。
砂月にとっての「父親」という概念は、これからどう形成されていくのだろうか。

